日本記録映画作家協会

日本記録映画作家協会(にほんきろくえいがさっかきょうかい)は、フリーや企業で記録映画・教育映画に関わる製作スタッフの職能団体

1950年代後半から1960年代の初頭にかけて、当時のドキュメンタリー教育映画の業界に小さくない影響力を持った。

ここでは、前身となる団体のひとつ、記録教育映画製作協議会についてもふれる。

略史

記録教育映画製作協議会

  • 1952年野田真吉吉見泰ら日映作家集団、新映画作家集団などのグループの有志が「記録教育映画製作協議会」発足[1]
  • 同年、記録教育映画製作協議会「1952年メーデー」(16分・35mm・白黒)構成・編集吉見泰、撮影植松永吉ほか)を製作。
  • 1954年、記録教育映画製作協議会『月の輪古墳』を製作。第1回教育映画祭(主催=日本映画教育協会、後援=文部省・外務省・通産省・厚生省・農林省・朝日新聞社・日本放送協会・東京都教育委員会)社会教育部門最高賞受賞。
  • 1955年、記録教育映画製作協議会が総評と提携して、日鋼室蘭争議を描いた菅家陳彦監督・江連高元撮影『197日の斗い 日鋼室蘭』(24分・16mm・白黒)を製作。

教育映画作家協会発足

日本記録映画作家協会に改称

  • 1960年、第7回定期総会で日本記録映画作家協会に改称[3]
  • 1961年、協会編『記録映画の技術』を医歯薬出版から刊行。
  • 1964年、マラソンランナーの君原健二を追った黒木和雄監督の「あるマラソンランナーの記録」をめぐって路線対立[4]が起き、野田真吉松本俊夫土本典昭黒木和雄東陽一小川紳介らが日本記録映画作家協会を離れて「映像芸術の会」を組織する。
  • 1973年、『多摩川 第一部・その風土と歴史』(企画=東京都教育庁)製作。
  • 1974年、『街道に残る文化財』(東京都映画協会との共同製作、企画=東京都教育庁、撮影=中尾駿一郎・小松浩・武井大・谷沢一義)製作。
  • 1975年、東京を記録する会と共同で、「東京の下町」を製作。
  • 2006年4月、「日本記録映画作家協会創立50周年記念映画祭」をなかのZERO小ホールで開催[2]
  • 2007年10月、「日本記録映画作家協会創立50周年記念映画祭 第2部」を開催し、このなかで東宝争議を題材にした清島利典監督『闘ふ映画人の記録』(1998年)を上映。
  • 2008年10月、日本記録映画作家協会の主催「第45回記録映画をみる会」開催。

これまでに取り組まれた主な事業

  • 年2回の「記録映画を見る会」。すかがわ国際短編映画祭への協賛[2]
  • 毎月1回の月例会・研究会開催、毎月1回の会報発行[2]
  • 来日した海外の記録映画作家との交流、ライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭への代表派遣[2]
  • 翻訳書=ヨリス・イヴェンス『カメラと私―ある記録映画作家の自伝』(日本記録映画作家協会訳、未來社、1974年)

組織の現況

会員の高齢化、分裂やドキュメンタリー関連のメディアやグループの多様化(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会他)などの影響で、正会員は、発足時の3分の1に減少。現在では、プロデューサー、カメラマンや上映・配給関係者まで入会できるようにしているが、2006年の正会員27名、賛助会員28名[2]。一般の友の会会員の拡大によって組織を維持している[2]

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ これとは別に、製作会社の業界団体が、1946年に「教育映画製作協議会」として、1953年に「教育映画製作者連盟」として、発足している。
  2. ^ a b c d e f g h 「日本記録映画作家協会とは?」日本記録映画作家協会50周年記念映画祭ブログ
  3. ^ a b 《征服》から《加担》へ 1950〜60年代日本のノンフィクション映画素描 岡田秀則
  4. ^ 3人のドキュメンタリストの肖像 岡田秀則
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