本多忠政
武将の「本多忠正」とは別人です。 |
凡例 本多 忠政 | |
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本多忠政像 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正3年(1575年) |
死没 | 寛永8年8月10日(1631年9月6日) |
別名 | 平八郎(通称)[1]、家忠 |
墓所 | 兵庫県姫路市書写山の圓教寺 |
官位 | 従五位下・美濃守、従四位下・侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 伊勢桑名藩主→播磨姫路藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠勝、母:阿知和玄鉄の娘・見星院 |
兄弟 | 小松姫、もり姫、忠政、忠朝、本多信之室、松下重綱室、蒲生瀬兵衛室 |
妻 | 松平信康の娘・妙高院 |
子 | 栄寿院、忠刻、円照院、政朝、忠義 |
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本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢国桑名藩の第2代藩主。後に播磨国姫路藩の初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫・熊姫である[2]。
生涯
天正3年(1575年)、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の長男(第3子)として生まれる[1]。
天正18年(1590年)の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた[1]。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍[1]。慶長14年(1609年)6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる[1]。
大坂の陣では伊勢国の諸大名を率いて参加し、冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた[1]。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた。冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で1泊している[1]。冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明たちと担当している。
慶長20年(1615年)の夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に大和路勢二番手大将として5月7日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った[1]。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。この合戦で忠政は292の敵首をとった[3]。翌日の天王寺・岡山の戦いにも参加した。
戦後には、それらの功績を賞されて西国の押さえとして、元和3年(1617年)7月14日に姫路城主となって15万石を領した[3][注釈 1]。寛永3年(1626年)8月に従四位下に叙せられ侍従に任官した[3]。
寛永8年(1631年)8月10日に姫路で死去した[3]。享年57[2]。嫡男・忠刻が寛永3年(1626年)に早世していたため、家督は次男・政朝が継いだ。
系譜
子女は3男2女
父母
正室
子女
- 国姫、栄寿院(長女) 生母は妙高院 - 徳川家康の養女、堀忠俊正室、後に有馬直純正室
- 本多忠刻(長男) 生母は妙高院
- 亀姫、円照院(次女) 生母は妙高院 - 徳川家康の養女、小笠原忠脩正室、後に小笠原忠真正室
- 本多政朝(次男) 生母は妙高院
- 本多忠義(三男) 生母は妙高院
養子
- 本多利友 - 旗本野条成宣の子。忠政の烏帽子子となって本多氏を称した。旗本本多八十郎家の祖。
墓所・霊廟
- 兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠政の廟所は寛永8年(1631年)に建立された[5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
本多家桑名藩2代藩主 (1609年 - 1617年) | |
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本多家 | |
久松松平家(定勝系) | |
久松松平家(定綱系) | |
奥平松平家 | |
久松松平家(定綱系) |
本多家姫路藩初代藩主 (1617年 - 1631年) | |
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池田家 | |
本多家 | |
奥平松平家 | |
結城松平家 | |
榊原家 | |
結城松平家 | |
本多家 | |
榊原家 | |
結城松平家 | |
酒井家 |